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日記

 
 日記は口語で書いたほうが楽なのでそうすることにした。
 
 インターネットの速さがどんどん上がってついにリアルタイムでコミュニケーションを取るようになったあたりで「もうダメだな」という思いが00年代の終わりからずっとあって、クソリプにしてもいわゆる「人と繋がりたい(共感してほしい)けどお前じゃない」問題にしても、根本的に現行のインターネットは無名の個人が匿名で自分の意見を発信していてもあんまりいいことがない。
 

「昔は、現実社会に居場所がない人がネットにたまってた。ネットの中に仲間がいて、現実社会と隔離した生活ができていた」と川上会長は振り返る。だが「今ではそれが不可能」だ。「ネットで生きるにも、リアルなコミュニケーションをやらざるをえない」

「今、大きな力を持っているのは、リアルの従属物としてネットがあるようなサービス。ネットがリアルにどんどん浸食されている。ネットで生きることとリアルで生きることを融合しないと、“ネットの人”の生きる場所がなくなってしまう。隔離された場所はどんどん狭くなっていくので、ネットを拠点として現実とつながらないと、幸せになれないと思う」

 

 引用部分については概ねその通りだと思うのだけど、4年前の時点で既にそんな感じだった。

 

 2016年になってから平均して1日1本くらいのペースで映画を観ている。自分があとで読み返したときにわかるよう、Filmarksにだいたいの評価と簡単な感想を書いているのだけど、それが人生で何の役に立つのか考えると、脚本や映像制作といった趣味の創作活動をするか、あるいはそういった仕事に関わりでもしない限りおそらく今後何かに役立つことはない。

 別に映画でなくても何でもそうだけど、最近は「この作品に触れて感じたことを誰かに伝えたい!」という意欲すらほとんどなくなった。それについて興味を持った人がそのときその場でスマートフォンを使って検索すればたいていのことは既に書かれているし、そこにあえて付け加えるほど価値のある知見は俺にはないことのほうが多い。

 ここで情報に価値を持たせる場合、もう「何が書いてあるか」でなく「誰が書いたのか」といった部分が重要になるけど、俺が別に何者でもない以上、後者は常に成立しない。

 ゲームに関しては「読みものとして面白い」といった実質特に何も言っていないような文章ならもう動画のほうが情報量も伝達速度も上だし、それでわからない「手触り」のような部分は実際にプレイしなければわからず、やり込みを重ねた濃い内容であればあるほど同じタイトルのプレイヤー以外は読んでもよくわからないものになるので、あまり書く必要性を感じなくなった。

 

 それから注意する点として、「ある特定の趣味性の高い分野とその背景・周辺事情に一定の造詣があり、またそれを他者に伝える活動を長期間に渡って無償で行い続けている市井の人」というのがそもそもあまり一般的な存在ではない。社会的適応に何らかの問題を抱えている場合もあるだろうし、振り返ってみると俺自身徐々にそうなっていった、という感覚はある。

 

 逆に個人が趣味で運営するブログやホームページを「実益を生むか否か」という点にだけフォーカスして考えると、結局マネタイズできるかどうかというところに行き着いてしまう。それを踏み込んで突き詰めた形の一つがいわゆるコピペブログだろう。そう考えるとあれもある意味やむを得ないことというか、当然の帰結のようにも思えてくる。

 衆目を集める(なるべく大勢の人が関心を持つ)情報を扇情的にまとめた記事を日に何本も矢継ぎ早に更新し、大量のPVを稼いで広告収入につなげていく。「ネットの利点(速報性)を最大限活用して少ない労力から最大の利益を取り出す」という観点で言えば、やってて楽しいかどうかは別として実際あれほど理に適ったやり方はない。

 嫌いなのになぜか詳しい人の記事で知ったのだけど、「はちま起稿」については開設時は管理人は確か地方の高校生だった。一介のアホな高校生が作った個人ブログが月間1億2000万PVを叩き出し、父親を社長に立てて法人化、年収は2500万を超え、一つの産業に一定の影響力を及ぼすようにまでなった(これについては俺は懐疑的だが)というのが仮にすべて事実だとすれば、それはそれで天晴だろう。

 

 10代なら話は別だけど、俺くらい、あるいはそれより上の年代でゲームとインターネットをやってきた無名の個人は、コピペブログについては批判するよりもまず「同じ個人かつ自分はコピペブログの管理人より遥か昔からネットにいて、遥かにゲームを愛していながら指を咥えて見ていることしかできなかった」という点をもっと重く受け止める必要がある。

 いくら批判しても自分が同じリスクステージには立っておらず、何の結果も出せなかった弱い存在であることに変わりはない。何もしない以上その声はどこの誰にも説得力をともなって響くことはなく、そのやりきれない気持ちが癒やされることもおそらくない。

 

 最近はレビュー記事を書いて~という方向性よりも、ゲームをプレイしながら要点や面白いギャグなどを喋っていき、その様子を観やすく編集したビデオを作ってアップロードしていく行為に可能性を感じ始めている。ある程度学んで実際にやってみないことには何とも言えないけど、なんだかより多くの人に届きそうだし、何より自分に向いているような気がする。

 

 映画の話に戻ると、ここ数年有名な映画をたくさん観たことで少しずつだけど映画のことがわかってきた。しかし同時に、その感覚が果たして妥当なものかどうかまではわからないものの、「こんな有名な作品にこの歳まで触れることがなかった時点でやる気がないし話にならないな」という気持ちになることが多かった。

 映画は100年以上に渡って世界中で膨大な数の作品が制作されているから、「現代の日本のTSUTAYAやGEOの棚にソフトが並んでいる」という時点で既にある程度淘汰による選別が済んでおり、有名な映画は面白いものばかり、というかむしろある程度面白いのは当たり前で、あとはもう自分の好みに合うかどうか、といった感じになる。

 その好みの傾向や範囲に気付きがあったり、頭の中でリンクが広がっていくのが楽しい。「面白さ」は相対的なもので、今まで○○が最高と思っていたけど実際にたくさん観て比較していくと案外それほどでもなく、なんだか表面的な部分しか受け取れていなかったなあとか、そういうことがわかる。

 

 ここまで2700字だけど、今回もだらだらとなんだかネガティブな内容で読んで面白いことや役に立つ情報が書けなかった。いい加減頭を働かせてもっと工夫して、ポジティブな流れを作るしっかりした記事作りを……してるような場合じゃないからこうなるんだろうなあ。困った困った。